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おうちミュージアム オリンピック特別編①「熊谷一弥」

2020東京オリンピックが7月23日より開催されました。

すでにいくつかのメダルを日本は獲得していますが、オリンピックが開催されてから日本人で初めてメダルを取った人物が大牟田出身だったことをご存知ですか?

その人物の名前は「熊谷一弥(一彌)」。1920年、ベルギーのアントワープ五輪テニス男子シングルスとダブルスで、2つの銀メダルに輝きましたが、その偉業を大牟田で知る人はあまりいません。

当館では2019年の夏に『2019夏の平和展「戦争とスポーツ」』と題したオリンピックに特化した展示を行っており、その際、大牟田が誇る日本人初メダリスト熊谷一弥について解説したコーナーを設置していました。今回は特別にオリンピック開催を記念して、当時展示していた熊谷一弥の他にも、戦争によって野球人生を絶たれてしまった名選手たちの展示を、WEB版として書き起こし、2回に分けて発表いたします。


日本人初の五輪メダリスト 大牟田出身 熊谷一弥

熊谷一彌(くまがい いちや)

2016年、リオデジャネイロ五輪男子シングルスにて、錦織圭選手が銅メダリストとなり、テニス競技では日本選手として96年ぶりのメダルを獲得したことで一大錦織ブームが起きました。ではその96年前に日本人の誰がテニスでメダルをとったのだろう?と疑問に思ったことはありませんか?
錦織圭選手がメダルを取る96年前の1920年、ベルギーのアントワープ五輪テニス男子シングルスとダブルスで、2つの銀メダルに輝き、しかも五輪で日本勢初のメダルを獲得したのは大牟田出身の熊谷一彌選手です。1918年の全米選手権(全米オープン前身)では、日本勢初の四大大会4強になるなど、日本テニス界の伝説のプレーヤーですが、その後テニスは、第8回五輪以後60年の間、オリンピック種目から外れていたこともあって、大牟田市民でも熊谷一彌の名前を知っている人は多くありません。

(画像をクリックすると拡大されます)

 

日本テニス界の黎明期

テニスが日本に姿を見せたのは意外に早く、1876(明治9)年、横浜の外国人居留者の間で始められました。
1879年、明治政府はテニスを日本の体育に取り入れようと、文部省の体育伝習所にアメリカから教師を招きます。この体育伝習所は、のちに高等師範学校に併合され、その卒業生が中学校教師として全国に赴任したことで、テニスは日本中に普及していきました。
ここでいう外国から伝えられたテニスとは、「硬式(ローンテニス)」のことで、国内に普及したテニスとは、「軟式(ソフトテニス)」のことです。当時、硬式のボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボールを代用したテニス「軟式」が考え出され、人気スポーツとなっていき、「硬式」は、一部の人の間だけで続けられていきました。

テニスとの出会いは炭鉱がきっかけ

熊谷一彌は、1890(明治23)年9月10日、大牟田町横須に生まれました。
テニスとの出会いは、8歳の夏。当時、熊谷少年は、山上町にあった尋常小学校の近くに住んでいたようです。このころ夕方になると、大人の集団が小学校の運動場に通ってきました。この大人たちは、三井物産の社員。香港勤務から帰国した社員が硬式テニスの道具一式を持ち帰ったことをきっかけに、 職場の仲間で楽しんでいたものでした。
興味を覚えた熊谷少年も毎日テニス見物に通います。プレーすることはありませんでしたが、ルールは覚えました。三井財閥が明治政府から三池炭鉱を買い取り払い下げられたのは1889(明治22)年。三池炭鉱がなければ、この出会いもありませんでした。

テニスとの2度目の出会いはそれから4年後、柿園町にあった柿木園高等小学校に進んだ年でした。
秋、教師用に軟式テニス道具一式が届き、先生たちよる放課後のテニス練習が始まりました。ある日、練習中の先生が、通りがかった熊谷に球拾いの手伝いを頼みます。熊谷は、ただ拾うのはつまらないと、初めてラケットを握り、飛んできた球をラケットで受け止めていましたが、何かの拍子に、打ち返した球が見事なコースで相手コートに入ります。「うまいぞ」先生が声を上げました。後に熊谷が記した本に「先生にほめられて有頂天になった。この言葉が自分のテニスの門を開いた」と書いています。この日から連日テニスの球拾いに通い、段々と試合にも加えてもらうようになりました。

世界への挑戦

中学校は柳川の伝習館へ1年通ったあと宮崎県へ引越し、宮崎中学校へ転校します。野球部で活躍しながらテニスも続けていたようですが、本格的にテニスを始めたのは、1910(明治43)年、慶應義塾大学へ入学し庭球部員となってからです。
同庭球部は世界を目指すために、1913(大正2)年4月に硬式テニスへと転向します。熊谷は、翌1914年1月、初の海外遠征となったマニラ選手権大会でシングルス準優勝を果たします。熊谷の世界への挑戦が始まった年でした。
特に活躍したのは、1917(大正6)年に入社した三菱合資会社銀行部のニューヨーク支店に勤務した5年間です。オリンピックとデビスカップ(男子テニス国別対抗戦)へ出場したのもこの期間内でした。

体格が勝る外国人選手に対して、熊谷の身長は約170センチ。左利きの熊谷は、硬式ラケットを軟式ラケットの標準的な握り方である「ウエスタングリップ」で握り、鋭くドライブ(こすり上げるような回転)のかかった打球を繰り出して、並み居る強豪を倒していきました。軟式テニスの技を、硬式テニスに通用するものに磨いていったのです。
当時アメリカに、テニスの神様といわれたビル・チルデン選手がいました。世界4大大会で10勝をあげた選手で、熊谷とテニスツアーの中で何度か決勝戦などを戦っています。チルデンは著書に「熊谷は、ハード・コートでの試合を得意とする世界で最も偉大な選手の一人。いついかなるときであっても、どんな種類のコートの上であっても、最も危険な対戦相手だ」と絶賛しています。

参考資料:広報おおむた2008年8月1日より


ちなみに日本人女性初のメダリストは、1928年アムステルダム五輪で陸上の800m決勝で銀メダルを獲得した人見 絹枝で、日本人初の金メダルを取った男性は同じく1928年に行われたアムステルダム五輪にて陸上競技の三段跳びで織田幹雄が、日本人女性初の金メダルは1936年に開催されたベルリン五輪の200m平泳ぎで前畑秀子が獲得しています。

当時の展示では日本人女性初金メダリストだった前畑秀子も展示で取り上げました。(展示していた当時は一部内容の文章に間違いがあったため、今回修正して掲載します。)


日本人女性初の金メダリストは前畑秀子(まえはたひでこ)

日本人女性初の金メダリストは、水泳の前畑秀子です。1932(昭和7)年に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得しました(金メダル選手とは0.1秒差でした)。大会後は家庭の事情もあり、引退も考えたそうですが、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎から「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。」と熱烈に説得したという記録があり、周囲の期待に答える形で現役続行を決意しました。1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ね、1933(昭和8)年には200m平泳ぎの世界新記録を樹立しました。
3年後の1936(昭和11)年、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、地元ドイツの選手とデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事勝利。日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルを獲得しました。

この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。その放送は現在でも語り草となり、レコード化もされているそうです。


次回は太平洋戦争などで戦死した日本プロ野球選手の功績を記した「鎮魂の碑」について更新します。

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