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おうちミュージアム 特別編②「鎮魂の碑」

本日8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。

当館では2019年夏に『平和展2019「戦争とスポーツ」』と題し、オリンピックに特化した展示を行っており、同時にアジア・太平洋戦争などで理不尽に戦死した日本プロ野球選手の功績を記念した「鎮魂の碑」についても紹介しました。今回はその内容をWEB版として新たに書き起こしたものを掲載いたします。


「鎮魂の碑」

第2次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、
戦塵(せんじん)に散華(さんげ)した選手諸君の霊を慰めるため、
われら有志あいはかりてこれを建つ。

有志代表 鈴木龍二

 

「鎮魂の碑」とは、東京都文京区後楽の東京ドーム敷地内にある石碑で、太平洋戦争などで戦死した日本プロ野球選手の功績を記念したものです。上記の文章はその石碑のひとつに刻まれています。
アジア・太平洋戦争では、当時20代から30代だった選手・指導者の多くが徴兵され、戦死していきました。
この石碑は、そんな戦争で尊い命を失った選手たちの慰霊のため1981年に建立されました。当時のセ・リーグ会長 鈴木龍二氏は、この石碑を立てるのが悲願だったといいます。

そこには2021年現在、76名の元プロ野球選手の名が刻まれており、その中には全球団を通しシーズンで最も活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」の名前のもとになった「澤村 榮治」(さわむらえいじ)や、野球漫画「あぶさん」(水島新司作)の主人公「景浦 安武(かげうら あぶ)」のモデルとしても有名な、景浦 將(かげうら まさる)、神風特別攻撃隊隊員として戦死した唯一のプロ野球選手である「石丸 進一」(いしまるしんいち)や、どんな難球でもタコの吸盤のように吸い取るアクロバティックな一塁守備で多くの野球ファンを球場に引き付け、ファンからは「タコの中河」の愛称で親しまれた「中河 美芳」(なかがわみよし)など今でも語り継がれる有名な選手の名前があります。

澤村栄治は何度も徴兵され、野球ボールの重さは約150g弱なのですが、500g以上もある手榴弾を沢山投げさせられ肩の故障を何度も起こし、最終的には兵役で乗っていた船が撃沈され、27歳で戦死(※1)。景浦將は、今で言う二刀流の選手で、「打球の速さにカモメもびっくりした」と絶賛され、澤村栄治のライバルとして球界を賑わしていましたが、やはり澤村と同じく兵役と手榴弾の投擲による肩の故障からは免れず、29歳で戦死しましたが、死後に届けられた骨壷には石ころが3つしか入っていなかったと遺族がインタビューで答えた記録が残っています。(※2)
石丸進一や中河美芳は、兵役から免れるために大学に進学(第2次世界大戦時の日本では、理工系の旧制大学・旧制専門学校の所属によって兵役が免除されていました)したものの、石丸進一は戦局の悪化による兵士不足から、学生の徴兵延期措置が撤廃され召集は免れず、神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として爆装零戦に出撃し、22歳で戦死(※3)。中河美芳は進学したものの選手としての肉体の疲労から大学を休みがちだった事を「兵役逃れのために大学に籍だけ置いている非国民である」と憲兵隊に目をつけられ迫害され、それから逃れるために自ら兵役を志願したものの迫害はやまず、24歳で戦死しましたが、その葬儀の際も憲兵隊による嫌がらせがあったといいます。(※4)

野球は戦時中でも人気が高く、名選手は国民的スターとして国民から愛されていましたが、そんな彼らでも兵役からは逃れられなかったのです。

戦争によって理不尽に運命を翻弄された存在があったことを、終戦から76年経ち当時を知る方々が少なくなりつつある昨今、鎮魂の碑はその存在をこうして私達に思い起こさせてくれました。

鎮魂の碑以外にも、戦争を忘れないために建てられた碑はたくさんあります。大牟田では普光寺に「大牟田空襲の碑」や藤田町天満神社に「藤田町被爆戦没者之碑」などがありますが、普段何気なく街に存在しているそれらが、一体何を訴えかけているのか、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の今日、一度思いを馳せてみるのも良いかもしれません。

※鎮魂の碑は「野球殿堂博物館」が管理しています。

各種参考サイト

※1 東洋経済オンライン「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実」より
※2 NHK「戦争とプロ野球 景浦将と若林忠志」より
※3 THE DIGEST 「特攻で空に散った石丸進一、波間に消えた沢村栄治…戦争で命を落とした野球選手たち」
※4 上田龍(ベースボール・コントリビューター)公式サイトRyo’s Baseball Cafe Americain「ベースボールと戦争②名一塁手・中河美芳 つきまとった憲兵隊のカゲ」より

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