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おうちミュージアム「熊本地震、あれから5年~」③

2021年4月6日(火)~6月27日(日)に開催されていた春の企画展「新収蔵カルタ展」で展示されていたミニコーナー「熊本地震、あれから5年~とある被災者の当時のメモより~」ですが、緊急事態宣言を受けて、展示期間が当初の予定より短縮されたため、WEB版を「おうちミュージアム」として数回に分けて掲載いたします。
この展示はとある被災者が、実際に体験した出来事を、当時のメモをイラスト文章で書き起こしたものです。

本日の更新は、後に本震が発生した2016年4月16日の手記を掲載します。

2016年4月16日(土)

AM 1:20頃

休んだ社員の分の仕事をしたり片付けたりで、完全にその日の仕事が終わったのは深夜の1時だった。アパートに帰るのもまだ危険な気もするし、あの長机の部屋に戻るのも嫌だった。上司に無理を言って、他の職員には内緒で一人、会社の仮眠室に泊まることを許可してもらった。仮眠室と言ってもベッドがあるわけではなく、少し大きめのソファがあるだけだったが、いつ長机の雪崩が起こるか心配しながら眠るより何千倍もマシだった。今度こそ眠れると思った瞬間、後にこちらのほうが「本震」と呼ばれるマグニチュード7.3の地震が起こった。最初の地震の時は気づかなかったが、今は会社の2階だったからか、揺れる直前にゴゴゴゴ…という地鳴りがはっきりと聞こえ、その次の瞬間、下から突き上がる衝撃のあと、ユサ…ユサ…という横揺れがとても長く続いた。今自分がいるのは丈夫な鉄コンの建物なのに、その壁や柱が、何故かはわからないがコンクリートの壁はこんにゃくのように柔軟に、ひび割れることなく揺れ続けていた。混乱して幻覚でも見たのだろうか。その非現実感に再び吐き気を感じた。

AM 1:30頃

机のPCがドミノのように倒れていった。会社の重要なデータが詰まったハードディスクがまだ倒れていない事に気づき、倒れないうちに保護しなければと向かったが、その甲斐なく、そのハードディスクは辿り着く前にひどい音を立てて地面に落ち、カバーが外れ中身が見えた。それを見た瞬間「ここからも逃げなければ」と気付き、揺れる中階段を降り外に出て、職場の近所の避難所をスマホで検索した。すると5分ほどの場所に避難所指定されている小学校があり、小学校なら机や椅子は山積みで置かれるのは専用の倉庫があるだろうから昨夜みたいなことにはならないはずだと、急いでその小学校へ向かったが、その小学校の門は閉じられ、人がいる様子もない。早く来すぎたのだろうか?と30分ほど待つが、一向に誰も集まる様子もないし、誰かがその校門を開けにくる様子もない。その間にも地面は揺れる。場所も間違えていないのに、なぜあの避難所の小学校に誰も来なかったのだろうか。
AM 2:20頃

なす術もなく校門の前で呆然と立ち尽くしていたら、通りすがりの初老の男性に声をかけられた。その男性は保育園の園長だそうで、「最近園を建て替え、耐震設計になっているから避難所として個人的にその保育園を開放している。女性一人は危ないから貴方も不安なら来てください」とその男性は言ってくれた。身なりのしっかりした方で、その保育園もすぐ見える場所で色んな人が入っていったので信用し、その保育園の中でも早めに安全な場所を確保できた。これで今度こそ眠れると思ったが、その保育園に通う園児のご家族もぞくぞくと避難して来て、仕方のないことだが不安に泣き叫ぶ子供の声や、「これは阿蘇山の噴火の前触れなのでは。だとしたら逃げ場はどこにもない」という絶望的な噂話をする人の声が、眠ろうとしても耳に入ってしまい恐怖から眠れなかった。
AM 2:40頃

トイレを借りようとしたら、トイレ全てが誰か使ったまま流されていなかった。断水が起きて水が流せないせいらしい。
これを見た瞬間心がポッキリ折れたのか、気づいたら大牟田の両親に電話で泣きついていた。当時義妹が妊娠中で、実家には自分より身重の義妹を優先してほしかったというのもあり、親は事あるごとに「車で迎えに行こうか?」と連絡をくれていたが、自分はずっと拒否していた。だがもう限界だった。大牟田から今いる場所までは3時間は掛かる場所だったため、両親の到着まで耐えた。その間も揺れた。何度も揺れた。後から避難に来た人の中に恐怖からか、大声で何事かを叫び続ける男性がいた。その人の目に止まらないように毛布を全身に被って必死に堪えた。

AM 6:30頃

親が約束の時間に来ない。非常事態なので仕方ない。1時間ほど遅れて両親から到着したというメールが届いた。昨夜声をかけてくれた園長さんにお礼を言いたかったが見当たらず、手持ちに筆記用具が何もなかったため、無言で出ていくしかなかった。(当時者談:後日、落ち着いてからお礼を言いに行きました。)
外に出ると母が声をかけてきたその瞬間涙腺が緩んだ。
両親から「一人でよく耐えた」等言われながら背中を擦られた。移動中車の後部座席を倒して眠らせてもらうことにした。それでも地震とは関係のない、車の揺れがある度に目を覚ましてしまった。
合計6時間近く危険をおしてまで迎えに来てくれた両親には感謝しか無い。大牟田も揺れているらしいが、少なくともここにいるよりマシだと信じたい。早く大牟田に帰りたい。

当時者談:当時は熊本県の中央区に、この地震が発生する1年前から住んでいましたが、この地震で色々な出来事が起き、最終的には大牟田に帰ってきました。今でもダンプカーなどが近くで通ったり、子供が大きな足音を立てながら近づいてくると一瞬身構える癖が抜けません。稚拙な文章ではありますが、この経験が誰かのお役に立てれば幸いです。

 

 

展示していた手記は以上となります。次回は展示していたカルタの紹介です。

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