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おうちミュージアム 特別編②「鎮魂の碑」

本日8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。

当館では2019年夏に『平和展2019「戦争とスポーツ」』と題し、オリンピックに特化した展示を行っており、同時にアジア・太平洋戦争などで理不尽に戦死した日本プロ野球選手の功績を記念した「鎮魂の碑」についても紹介しました。今回はその内容をWEB版として新たに書き起こしたものを掲載いたします。


「鎮魂の碑」

第2次世界大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、
戦塵(せんじん)に散華(さんげ)した選手諸君の霊を慰めるため、
われら有志あいはかりてこれを建つ。

有志代表 鈴木龍二

 

「鎮魂の碑」とは、東京都文京区後楽の東京ドーム敷地内にある石碑で、太平洋戦争などで戦死した日本プロ野球選手の功績を記念したものです。上記の文章はその石碑のひとつに刻まれています。
アジア・太平洋戦争では、当時20代から30代だった選手・指導者の多くが徴兵され、戦死していきました。
この石碑は、そんな戦争で尊い命を失った選手たちの慰霊のため1981年に建立されました。当時のセ・リーグ会長 鈴木龍二氏は、この石碑を立てるのが悲願だったといいます。

そこには2021年現在、76名の元プロ野球選手の名が刻まれており、その中には全球団を通しシーズンで最も活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」の名前のもとになった「澤村 榮治」(さわむらえいじ)や、野球漫画「あぶさん」(水島新司作)の主人公「景浦 安武(かげうら あぶ)」のモデルとしても有名な、景浦 將(かげうら まさる)、神風特別攻撃隊隊員として戦死した唯一のプロ野球選手である「石丸 進一」(いしまるしんいち)や、どんな難球でもタコの吸盤のように吸い取るアクロバティックな一塁守備で多くの野球ファンを球場に引き付け、ファンからは「タコの中河」の愛称で親しまれた「中河 美芳」(なかがわみよし)など今でも語り継がれる有名な選手の名前があります。

澤村栄治は何度も徴兵され、野球ボールの重さは約150g弱なのですが、500g以上もある手榴弾を沢山投げさせられ肩の故障を何度も起こし、最終的には兵役で乗っていた船が撃沈され、27歳で戦死(※1)。景浦將は、今で言う二刀流の選手で、「打球の速さにカモメもびっくりした」と絶賛され、澤村栄治のライバルとして球界を賑わしていましたが、やはり澤村と同じく兵役と手榴弾の投擲による肩の故障からは免れず、29歳で戦死しましたが、死後に届けられた骨壷には石ころが3つしか入っていなかったと遺族がインタビューで答えた記録が残っています。(※2)
石丸進一や中河美芳は、兵役から免れるために大学に進学(第2次世界大戦時の日本では、理工系の旧制大学・旧制専門学校の所属によって兵役が免除されていました)したものの、石丸進一は戦局の悪化による兵士不足から、学生の徴兵延期措置が撤廃され召集は免れず、神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として爆装零戦に出撃し、22歳で戦死(※3)。中河美芳は進学したものの選手としての肉体の疲労から大学を休みがちだった事を「兵役逃れのために大学に籍だけ置いている非国民である」と憲兵隊に目をつけられ迫害され、それから逃れるために自ら兵役を志願したものの迫害はやまず、24歳で戦死しましたが、その葬儀の際も憲兵隊による嫌がらせがあったといいます。(※4)

野球は戦時中でも人気が高く、名選手は国民的スターとして国民から愛されていましたが、そんな彼らでも兵役からは逃れられなかったのです。

戦争によって理不尽に運命を翻弄された存在があったことを、終戦から76年経ち当時を知る方々が少なくなりつつある昨今、鎮魂の碑はその存在をこうして私達に思い起こさせてくれました。

鎮魂の碑以外にも、戦争を忘れないために建てられた碑はたくさんあります。大牟田では普光寺に「大牟田空襲の碑」や藤田町天満神社に「藤田町被爆戦没者之碑」などがありますが、普段何気なく街に存在しているそれらが、一体何を訴えかけているのか、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の今日、一度思いを馳せてみるのも良いかもしれません。

※鎮魂の碑は「野球殿堂博物館」が管理しています。

各種参考サイト

※1 東洋経済オンライン「悲劇の投手、沢村栄治」の哀しすぎる真実」より
※2 NHK「戦争とプロ野球 景浦将と若林忠志」より
※3 THE DIGEST 「特攻で空に散った石丸進一、波間に消えた沢村栄治…戦争で命を落とした野球選手たち」
※4 上田龍(ベースボール・コントリビューター)公式サイトRyo’s Baseball Cafe Americain「ベースボールと戦争②名一塁手・中河美芳 つきまとった憲兵隊のカゲ」より

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おうちミュージアム オリンピック特別編①「熊谷一弥」

2020東京オリンピックが7月23日より開催されました。

すでにいくつかのメダルを日本は獲得していますが、オリンピックが開催されてから日本人で初めてメダルを取った人物が大牟田出身だったことをご存知ですか?

その人物の名前は「熊谷一弥(一彌)」。1920年、ベルギーのアントワープ五輪テニス男子シングルスとダブルスで、2つの銀メダルに輝きましたが、その偉業を大牟田で知る人はあまりいません。

当館では2019年の夏に『2019夏の平和展「戦争とスポーツ」』と題したオリンピックに特化した展示を行っており、その際、大牟田が誇る日本人初メダリスト熊谷一弥について解説したコーナーを設置していました。今回は特別にオリンピック開催を記念して、当時展示していた熊谷一弥の他にも、戦争によって野球人生を絶たれてしまった名選手たちの展示を、WEB版として書き起こし、2回に分けて発表いたします。


日本人初の五輪メダリスト 大牟田出身 熊谷一弥

熊谷一彌(くまがい いちや)

2016年、リオデジャネイロ五輪男子シングルスにて、錦織圭選手が銅メダリストとなり、テニス競技では日本選手として96年ぶりのメダルを獲得したことで一大錦織ブームが起きました。ではその96年前に日本人の誰がテニスでメダルをとったのだろう?と疑問に思ったことはありませんか?
錦織圭選手がメダルを取る96年前の1920年、ベルギーのアントワープ五輪テニス男子シングルスとダブルスで、2つの銀メダルに輝き、しかも五輪で日本勢初のメダルを獲得したのは大牟田出身の熊谷一彌選手です。1918年の全米選手権(全米オープン前身)では、日本勢初の四大大会4強になるなど、日本テニス界の伝説のプレーヤーですが、その後テニスは、第8回五輪以後60年の間、オリンピック種目から外れていたこともあって、大牟田市民でも熊谷一彌の名前を知っている人は多くありません。

(画像をクリックすると拡大されます)

 

日本テニス界の黎明期

テニスが日本に姿を見せたのは意外に早く、1876(明治9)年、横浜の外国人居留者の間で始められました。
1879年、明治政府はテニスを日本の体育に取り入れようと、文部省の体育伝習所にアメリカから教師を招きます。この体育伝習所は、のちに高等師範学校に併合され、その卒業生が中学校教師として全国に赴任したことで、テニスは日本中に普及していきました。
ここでいう外国から伝えられたテニスとは、「硬式(ローンテニス)」のことで、国内に普及したテニスとは、「軟式(ソフトテニス)」のことです。当時、硬式のボールの国産が難しく、また輸入品も高価であったために、比較的安価であったゴムボールを代用したテニス「軟式」が考え出され、人気スポーツとなっていき、「硬式」は、一部の人の間だけで続けられていきました。

テニスとの出会いは炭鉱がきっかけ

熊谷一彌は、1890(明治23)年9月10日、大牟田町横須に生まれました。
テニスとの出会いは、8歳の夏。当時、熊谷少年は、山上町にあった尋常小学校の近くに住んでいたようです。このころ夕方になると、大人の集団が小学校の運動場に通ってきました。この大人たちは、三井物産の社員。香港勤務から帰国した社員が硬式テニスの道具一式を持ち帰ったことをきっかけに、 職場の仲間で楽しんでいたものでした。
興味を覚えた熊谷少年も毎日テニス見物に通います。プレーすることはありませんでしたが、ルールは覚えました。三井財閥が明治政府から三池炭鉱を買い取り払い下げられたのは1889(明治22)年。三池炭鉱がなければ、この出会いもありませんでした。

テニスとの2度目の出会いはそれから4年後、柿園町にあった柿木園高等小学校に進んだ年でした。
秋、教師用に軟式テニス道具一式が届き、先生たちよる放課後のテニス練習が始まりました。ある日、練習中の先生が、通りがかった熊谷に球拾いの手伝いを頼みます。熊谷は、ただ拾うのはつまらないと、初めてラケットを握り、飛んできた球をラケットで受け止めていましたが、何かの拍子に、打ち返した球が見事なコースで相手コートに入ります。「うまいぞ」先生が声を上げました。後に熊谷が記した本に「先生にほめられて有頂天になった。この言葉が自分のテニスの門を開いた」と書いています。この日から連日テニスの球拾いに通い、段々と試合にも加えてもらうようになりました。

世界への挑戦

中学校は柳川の伝習館へ1年通ったあと宮崎県へ引越し、宮崎中学校へ転校します。野球部で活躍しながらテニスも続けていたようですが、本格的にテニスを始めたのは、1910(明治43)年、慶應義塾大学へ入学し庭球部員となってからです。
同庭球部は世界を目指すために、1913(大正2)年4月に硬式テニスへと転向します。熊谷は、翌1914年1月、初の海外遠征となったマニラ選手権大会でシングルス準優勝を果たします。熊谷の世界への挑戦が始まった年でした。
特に活躍したのは、1917(大正6)年に入社した三菱合資会社銀行部のニューヨーク支店に勤務した5年間です。オリンピックとデビスカップ(男子テニス国別対抗戦)へ出場したのもこの期間内でした。

体格が勝る外国人選手に対して、熊谷の身長は約170センチ。左利きの熊谷は、硬式ラケットを軟式ラケットの標準的な握り方である「ウエスタングリップ」で握り、鋭くドライブ(こすり上げるような回転)のかかった打球を繰り出して、並み居る強豪を倒していきました。軟式テニスの技を、硬式テニスに通用するものに磨いていったのです。
当時アメリカに、テニスの神様といわれたビル・チルデン選手がいました。世界4大大会で10勝をあげた選手で、熊谷とテニスツアーの中で何度か決勝戦などを戦っています。チルデンは著書に「熊谷は、ハード・コートでの試合を得意とする世界で最も偉大な選手の一人。いついかなるときであっても、どんな種類のコートの上であっても、最も危険な対戦相手だ」と絶賛しています。

参考資料:広報おおむた2008年8月1日より


ちなみに日本人女性初のメダリストは、1928年アムステルダム五輪で陸上の800m決勝で銀メダルを獲得した人見 絹枝で、日本人初の金メダルを取った男性は同じく1928年に行われたアムステルダム五輪にて陸上競技の三段跳びで織田幹雄が、日本人女性初の金メダルは1936年に開催されたベルリン五輪の200m平泳ぎで前畑秀子が獲得しています。

当時の展示では日本人女性初金メダリストだった前畑秀子も展示で取り上げました。(展示していた当時は一部内容の文章に間違いがあったため、今回修正して掲載します。)


日本人女性初の金メダリストは前畑秀子(まえはたひでこ)

日本人女性初の金メダリストは、水泳の前畑秀子です。1932(昭和7)年に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得しました(金メダル選手とは0.1秒差でした)。大会後は家庭の事情もあり、引退も考えたそうですが、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎から「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。」と熱烈に説得したという記録があり、周囲の期待に答える形で現役続行を決意しました。1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ね、1933(昭和8)年には200m平泳ぎの世界新記録を樹立しました。
3年後の1936(昭和11)年、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、地元ドイツの選手とデッドヒートを繰り広げ、1秒差で見事勝利。日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルを獲得しました。

この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。その放送は現在でも語り草となり、レコード化もされているそうです。


次回は太平洋戦争などで戦死した日本プロ野球選手の功績を記した「鎮魂の碑」について更新します。

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おうちミュージアム「熊本地震、あれから5年~」⑤

2021年4月6日(火)~6月27日(日)に開催されていた春の企画展「新収蔵カルタ展」で展示されていたミニコーナー「熊本地震、あれから5年~とある被災者の当時のメモより~」ですが、緊急事態宣言を受けて、展示期間が当初の予定より短縮されたため、WEB版を「おうちミュージアム」として数回に分けて掲載いたします。

今回は、当時展示していた、熊本や地震に関わる防災カルタの紹介をします。

熊本城かるた(ダウンロード版)
企画:熊本日日新聞社
公開:2019年

熊本城復興支援キャンペーンの一環として企画されたもので、2019年に熊本県内の小中学生を対象に「熊本城かるた絵コンテスト」が開催されました。コンテストには961作品もの応募があり、厳正な審査の結果44の絵札が選ばれ読札とともにHPで公開されています。

こちらでダウンロードできます

 

熊本弁カルタ
制作:株式会社熊本県民テレビ(https://www.kkt.jp/index.html)
公開:2008年

KKT(くまもと県民テレビ)の情報ワイド番組「テレビタミン」が、視聴者に向けて熊本弁を取り入れた川柳を募集したところ2000句以上の応募があり、その中から方言監修でもある肥後狂句連盟顧問の富永兆吉氏が45句を選びました。アニメ「まんが日本昔ばなし」の男性ナレーションで有名な、故 常田富士男氏が読み札を読み上げた「読み手CD」が同封されているので、一人で遊ぶこともできます。

 

阿蘇まるわかりカルタ
制作:阿蘇ペンクラブ
発行年:2006年

2006年に発行された、阿蘇の観光ポイントをカルタにした郷土カルタです。中には「阿蘇まるわかりマップ」が同封され、カルタに使用されているポイントがわかりやすくなっています。
熊本地震の際、阿蘇では土石流や地滑りで基幹道路や橋梁が崩落・破損し、水源の滅失で断水状態となるなどしました。ですが2021年3月29日に約5年を経て、阿蘇復興のシンボル、新阿蘇大橋が復活し、南阿蘇鉄道を除く主要交通アクセスが全て復旧しました。(令和3年7月現在)

 

子ども防災かるた
監修:消防庁防災課
制作:(財)消防科学総合センター
発行年:不明

説明書には「このカルタは、子どもたちが地震や火災、大雨、台風など、災害に対する正しい知識を身につけ、安全な生活を送ることができるようになることを目的につくられたものです」とあります。その言葉通り、子供でもわかりやすく災害時に何をすればよいのか簡潔に、わかりやすく書いてあります。
「つ」なみのスピード ジェット機なみだ いそいでにげよう 高台に」
「ぶ」ろっくべいには 気をつけて、地震のときには 近づくな」など。

インターネット上にはこのカルタの他にも、「防災」「カルタ」で検索をすると様々な防災カルタがあります。
カルタは知育玩具としても優れており、読み札のリズムと適度な文章の長さは記憶しやすく、「カルタ」というゲームで楽しみながら学ぶことができます。
大げさかもしれませんが、防災カルタを遊ぶことで、いざ災害に遭遇した時、遊んだ時に得た知識が身を守ってくれるかもしれません。

 

今回で春展に展示していた「熊本地震、あれから5年~」は全て終了です。お読みいただき、ありがとうございました。

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おうちミュージアム「熊本地震、あれから5年~」④

2021年4月6日(火)~6月27日(日)に開催されていた春の企画展「新収蔵カルタ展」で展示されていたミニコーナー「熊本地震、あれから5年~とある被災者の当時のメモより~」ですが、緊急事態宣言を受けて、展示期間が当初の予定より短縮されたため、WEB版を「おうちミュージアム」として数回に分けて掲載いたします。
この展示はとある被災者が、実際に体験した出来事を、当時のメモをイラスト文章で書き起こしたものです。

今回は被災者、の実際の被害に遭った部屋の写真をご紹介します。お見苦しい写真もありますがご了承下さいませ。

 

撮影:2016年8月ごろ
このアパートには地震が起きた2016年4月14日から8月までは実家の大牟田に避難していたためここにはそれまで来なかったのですが、14日時点ではノートパソコンの上になっていたはずのテレビが、ノートパソコンの下にあったテーブルの下に潜り込んでいるのをみると、おそらく16日の本震の際にもここは大揺れで部屋の中がかき混ぜられたのだと推測されます。

撮影:2016年8月ごろ
玄関の直ぐ側に冷蔵庫を置いていましたが、玄関の扉側に倒れたため脱出を困難にしました。
冷凍庫の扉が外れ、下に落ちています。当然ですが作りおきなどは全て外に飛び出て、異臭を放っていました。近隣にお住まいの方にお詫びに行こうとしたところ、すでにそのアパートから人がほとんど撤退されており叶いませんでした。

撮影:2016年8月ごろ
冷蔵庫の上に置いていたオーブントースターが、本来上にあったはずの電灯の上に落ちています。
奥の方では直前までやっていた趣味の手芸の道具(羊毛フェルトのニードルホルダー)が見えます。

撮影:2016年8月ごろ
台所と洗濯機。洗濯機が給水ホースでかろうじて倒れずにいるのがわかります。壁にヒビができていました。わかりにくいですがガスコンロは床に落ち、ガスホースと離れてしまっています。地震が起きた際、まずやることとしてガスの元栓を締める・ブレーカーを落とす・お風呂に水を貯めるということは徹底しようと思っていたのですが、本文中に書いたとおりお風呂に水を貯めることだけは断念せざるを得ませんでした。ブレーカーとガスの元栓は閉めたと思うのですが、この状態でどうやってガスの元栓を締めたのか記憶が曖昧です。

ちなみに当時やろうとしたお風呂の水ためですが、16日に起きた、避難所のトイレが全部流れていなかった時に排泄物を流すために使用する目的等があるそうです。(ですが近年の防災情報によっては、アパートなどは地震で排水溝が破損している場合があり、被災後水を流すことで思ってもいない場所に排泄物が流れ込む危険性があり、被災した建物内のトイレ自体は使わないほうがいい(用意される被災者用に設置されるトイレを使う)という意見のほか、飲水・洗濯の水として保管にも向かず(菌が繁殖しやすいため)、「地震で被災したらお風呂に水を貯める」というのは推奨しない方向になりつつあるようですが、地震発生に伴う火事などには有効という意見もあります。)

次回は最終回。展示していた熊本関係や防災に特化したカルタの説明です。

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おうちミュージアム「熊本地震、あれから5年~」③

2021年4月6日(火)~6月27日(日)に開催されていた春の企画展「新収蔵カルタ展」で展示されていたミニコーナー「熊本地震、あれから5年~とある被災者の当時のメモより~」ですが、緊急事態宣言を受けて、展示期間が当初の予定より短縮されたため、WEB版を「おうちミュージアム」として数回に分けて掲載いたします。
この展示はとある被災者が、実際に体験した出来事を、当時のメモをイラスト文章で書き起こしたものです。

本日の更新は、後に本震が発生した2016年4月16日の手記を掲載します。

2016年4月16日(土)

AM 1:20頃

休んだ社員の分の仕事をしたり片付けたりで、完全にその日の仕事が終わったのは深夜の1時だった。アパートに帰るのもまだ危険な気もするし、あの長机の部屋に戻るのも嫌だった。上司に無理を言って、他の職員には内緒で一人、会社の仮眠室に泊まることを許可してもらった。仮眠室と言ってもベッドがあるわけではなく、少し大きめのソファがあるだけだったが、いつ長机の雪崩が起こるか心配しながら眠るより何千倍もマシだった。今度こそ眠れると思った瞬間、後にこちらのほうが「本震」と呼ばれるマグニチュード7.3の地震が起こった。最初の地震の時は気づかなかったが、今は会社の2階だったからか、揺れる直前にゴゴゴゴ…という地鳴りがはっきりと聞こえ、その次の瞬間、下から突き上がる衝撃のあと、ユサ…ユサ…という横揺れがとても長く続いた。今自分がいるのは丈夫な鉄コンの建物なのに、その壁や柱が、何故かはわからないがコンクリートの壁はこんにゃくのように柔軟に、ひび割れることなく揺れ続けていた。混乱して幻覚でも見たのだろうか。その非現実感に再び吐き気を感じた。

AM 1:30頃

机のPCがドミノのように倒れていった。会社の重要なデータが詰まったハードディスクがまだ倒れていない事に気づき、倒れないうちに保護しなければと向かったが、その甲斐なく、そのハードディスクは辿り着く前にひどい音を立てて地面に落ち、カバーが外れ中身が見えた。それを見た瞬間「ここからも逃げなければ」と気付き、揺れる中階段を降り外に出て、職場の近所の避難所をスマホで検索した。すると5分ほどの場所に避難所指定されている小学校があり、小学校なら机や椅子は山積みで置かれるのは専用の倉庫があるだろうから昨夜みたいなことにはならないはずだと、急いでその小学校へ向かったが、その小学校の門は閉じられ、人がいる様子もない。早く来すぎたのだろうか?と30分ほど待つが、一向に誰も集まる様子もないし、誰かがその校門を開けにくる様子もない。その間にも地面は揺れる。場所も間違えていないのに、なぜあの避難所の小学校に誰も来なかったのだろうか。
AM 2:20頃

なす術もなく校門の前で呆然と立ち尽くしていたら、通りすがりの初老の男性に声をかけられた。その男性は保育園の園長だそうで、「最近園を建て替え、耐震設計になっているから避難所として個人的にその保育園を開放している。女性一人は危ないから貴方も不安なら来てください」とその男性は言ってくれた。身なりのしっかりした方で、その保育園もすぐ見える場所で色んな人が入っていったので信用し、その保育園の中でも早めに安全な場所を確保できた。これで今度こそ眠れると思ったが、その保育園に通う園児のご家族もぞくぞくと避難して来て、仕方のないことだが不安に泣き叫ぶ子供の声や、「これは阿蘇山の噴火の前触れなのでは。だとしたら逃げ場はどこにもない」という絶望的な噂話をする人の声が、眠ろうとしても耳に入ってしまい恐怖から眠れなかった。
AM 2:40頃

トイレを借りようとしたら、トイレ全てが誰か使ったまま流されていなかった。断水が起きて水が流せないせいらしい。
これを見た瞬間心がポッキリ折れたのか、気づいたら大牟田の両親に電話で泣きついていた。当時義妹が妊娠中で、実家には自分より身重の義妹を優先してほしかったというのもあり、親は事あるごとに「車で迎えに行こうか?」と連絡をくれていたが、自分はずっと拒否していた。だがもう限界だった。大牟田から今いる場所までは3時間は掛かる場所だったため、両親の到着まで耐えた。その間も揺れた。何度も揺れた。後から避難に来た人の中に恐怖からか、大声で何事かを叫び続ける男性がいた。その人の目に止まらないように毛布を全身に被って必死に堪えた。

AM 6:30頃

親が約束の時間に来ない。非常事態なので仕方ない。1時間ほど遅れて両親から到着したというメールが届いた。昨夜声をかけてくれた園長さんにお礼を言いたかったが見当たらず、手持ちに筆記用具が何もなかったため、無言で出ていくしかなかった。(当時者談:後日、落ち着いてからお礼を言いに行きました。)
外に出ると母が声をかけてきたその瞬間涙腺が緩んだ。
両親から「一人でよく耐えた」等言われながら背中を擦られた。移動中車の後部座席を倒して眠らせてもらうことにした。それでも地震とは関係のない、車の揺れがある度に目を覚ましてしまった。
合計6時間近く危険をおしてまで迎えに来てくれた両親には感謝しか無い。大牟田も揺れているらしいが、少なくともここにいるよりマシだと信じたい。早く大牟田に帰りたい。

当時者談:当時は熊本県の中央区に、この地震が発生する1年前から住んでいましたが、この地震で色々な出来事が起き、最終的には大牟田に帰ってきました。今でもダンプカーなどが近くで通ったり、子供が大きな足音を立てながら近づいてくると一瞬身構える癖が抜けません。稚拙な文章ではありますが、この経験が誰かのお役に立てれば幸いです。

 

 

展示していた手記は以上となります。次回は展示していたカルタの紹介です。

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